この御法話は、本会の講師である山口修源先生が
一般的に馴染みある仏教の根本思想、「慈悲」について語られたものの抜粋です。
小鳥が発した無私の思い
私が大変好きな話があります。すぐに終わってしまう短い話ではあるのですが。『雑宝蔵経』(譬喩譚、因果応報譚を収録した経)の中に山火事に遭った小鳥の話があります。山火事になればどうなるかと言えば、動物たちは皆逃げ惑い、焼け死ぬ者が続出します。その中で確実に逃げられる動物は何でしょうか?鳥ですね。
鳥はすぐに飛び立って逃げることができるからです。鳥は空を飛べるから、大変便利です。ところが四つ足の類い、或いは小さな動物たちは、逃げる方向を間違えたらもうそれでお終いです。方向を間違えなくとも、逃げる速度が火の勢いよりも遅ければ、焼け死んでしまいます。山の動物達にとってそれは大パニック以外の何者でもありません。
その山火事の中で、びっくりして森から逃げ出した一羽の小鳥の話です。逃げ出してみたら、向こうから悲鳴が聞こえてきます。仲間たちの悲鳴が。多くの動物たちが、向うから「助けて!」と言って悲鳴をあげています、「ギャー!」と言って焼け死んでいる者が沢山います。
その声を聞いて、小鳥は、小さな小さな鳥なのですけれど、どうしたかと言うと、近くにあった池にそのままザブンと飛び込んで、全身を水浸しにすると、そのまま火事の真上まで行ってパタパタと羽ばたいて雫を落とし始めたのでした。
でも、そこにたどり着くまでに殆どの水は落ちてしまいます。しかし、そんなことは分かっているけれども、だからといってそこで何もせずにはいられません。滴り落ちるほんの僅かな一滴の雫を、パタパタとやって落とすのでした。何の効き目もありはしないことは誰の目にも明らかでした。
しかし、その小鳥は繰り返し繰り返し池に飛び込んでは、またパタパタとやるのです。必死で、必死で、必死で、ただただ皆が心配で一途にやり続けたのでした。
そこには、只、皆が助かって欲しいという強い強い思いがあるだけでした。只、只、その思いだけで全力で羽ばたいていたのです。
それから幾時が過ぎたでしょうか。その小鳥の余りにも一途な思い、その必死の思いに遂に梵天が感応されて大雨を降らされたのでした。すると、恐ろしいばかりの山火事がたちどころにその勢いを失い鎮火したのです。そして奇跡的に多くの動物が救われました。しかしその時には、小鳥はすでに息絶えていたのです。
計算のない必死の行為
この話が、私は非常に好きです。好きというより本当に感動する。一見幼稚で非常に単純な話なのだけれども、とても感動します。それは、そこから真実の命を懸けた悲しみが伝わってくるからです。
慈悲と言うのは、実にこの感覚であるのです。その小鳥は何故そんなことをしたのでしょうか。皆さんは、他の動物が可哀想だったからだ、と思うでしょう。助けようと思ってやったのだと思います。勿論その通りではあります。
皆さんの大方の発想は、ポジティブな考え方ですね。プラスの感覚で、「皆困っているから助けるんだ、助けるのが当たり前でしょう」と思うのです。
ところが、その小鳥は助けようと思っているのではないのです。もちろん助けようとは思ってはいるのです。しかし、自分が助けられるから自分が助けてやろう、ではないのです。仲間が苦しみ死んでいくのが見ていられなくて、辛くて辛くて、悲しくて悲しくて、ただ必死なだけなのです。悲しくて悲しくて必死になるものだから、全くナンセンスな事をやり続けたのです。分かりますか。
もしポジティブだったら、こんな行動はとりません。やる事に意味がないからです。この絶望をさっさと受け入れてしまいます。たった一羽の小さな鳥が飛んできてパタパタやったところでナンセンス以外の何者でもないからです。森に辿り着くまでに殆どの水は落ちてしまうのだから。仮に落ちなかったとしても、小さな鳥が運んだ水が何になるでしょうか。焼け石に水、にもなりません。全く意味を成さないのです。でも、その小鳥は必死でやり続けたのでした。そして遂に命を落としてしまいます。
これは、結果的には極めてポジティブに思えるのですが、実はポジティブな感覚とは全く違う。極めてネガティブな感覚であるのです。
私は「慈悲」という言葉を思った時に、この物語がすっと浮かんできました。ああ、皆さんにはこの話をして差し上げたいと思いました。
慈悲というのは、実にこの感覚であるのです。皆さんが思う「可哀想」ではないのです。
この感性こそが、世の中を真に素晴らしい社会へと変え得るのだと私は感じています。
一般に世の中を向上させるのは、ポジティブな思考です。これは、一つの真実です。
一方、ネガティブには、非常に安っぽい自己否定のイメージが付きまとっています。しかし、この小鳥のような、強い情念、言葉に言い表せない強い思いといったものこそが、ネガティブの深遠さでもあるのです。
「博愛」をポジティブとするなら「慈悲」は神の領域に至るネガティブなのだと私は言いたいのです。
後者の様に、所謂前向きで合理的な物の考え方ではない形で、一生懸命に出てくる誠の姿こそが非常に重要である事を、皆さん方は知る必要があるのです。その思いこそが、世の中を真に良くしてくれるのだと、私はいつも痛感しています。
非常に深い感性を要する「慈悲」
おそらく皆さんの中で、「慈悲」という言葉に囚われたことのある人は少ないでしょう。ですが私には、「慈悲」という言葉に深い思い入れがあります。皆さんは慈悲と慈愛、或いは愛とか、博愛という言葉に対し、おそらくその違いを意識しないで聞いてこられてきたと思います。
この「慈悲」という言葉は、本来、仏教用語ではあるのですが、今まで日常的に日本で使われてきたということは奇跡に近い様に思えてなりません。「慈愛」にならないで「慈悲」を通してきたということです。よその国では有り得なかった様に思います。
即ち、キリスト教の思想が日本にも入ってきて、キリスト教では博愛や慈愛という言葉が使用されてきました。キリスト教の思想は、世界中を席巻し、その思想は日本にも大きな影響を与えてきたわけです。他の翻訳語に押されて消えていった日本語の前例からすると、「慈悲」も消え去って何ら不思議ではありませんでした。漢字の意味が不明瞭だからです。
ですが、「慈悲」という言葉は残り続けました。
今日は、仏教本来の字義に拘泥わるのではなく、実際に我々が把握してきた、日本語として捉えてきたところの「慈悲」について考えてみましたが、慈悲というのは、非常に深い感性を要するものなのです。



